昭和49年01月13日 朝の御理解



 御理解 第54節
  「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 天地の親神様の願いというのは、究極のところ、ここの処ではないかと思います。神様がお喜び下さる。いや安心して下さる。氏子信心しておかげを受けてくれよと。信心しておかげ受けてくれというのは、ここのところだろうと思う。信心して御徳を受けてくれよと。そこには神様も安心、氏子も安心と言う事になる。そこで神徳を受けるために、信心の稽古はさせて頂いておると言うてもいいのです。神徳を受ければ心配はない。ここん所はこういう風にも言えます。
 徳のない間はよう腹が立つと言う事にもなります。徳のない間は人間心ばかり使うと言う事も言えます。今日私は御祈念中に人間のまなこですね目ん玉。まなこがキョロキョロ、あっち動きこっち動きしておるところを頂いたんです。どう言う事だろうかと私は思うておった。目ん玉がキョロキョロしとる。そして今日の御理解を頂いてから、ははぁ徳のない間は、やはり目ん玉がキョロキョロしとると云う意味じゃろうと思いました。落ち着きがない。徳を受けて来ると落ち着いておれる。
 それはどんな場合いであっても、泰然自若としておれると言う事。どんな場合であっても慌てんで済むと言う事。ですから自分の信心の、バロメ-タ-でもあると言う事目ん玉は。丁度今考えてみると秤を掛けますと、こうこ動くでしょう。針の先がねあんな様なもの。決まった所へ来たら、ピシッとそこへ停止すると言う様な心の状態。それは矢張り御徳を受けても、人間生身のことですから、お粗末御無礼は何時も感じておるのですから。いろんな場合ハッとする様な事も私はあると思う。
 けども次の瞬間にはそれを有り難いとか、済みませんとかという心の状態になる時に、心はドッコイとこう坐っておるもんです。それを成程お粗末御無礼、御粗末御無礼と、例えて申しますと、それこそ目から火の出るように、頭を打ったと致しましょうか。人間の、何処に御粗末御無礼があるやら判りませんから、だからああ痛よと云うておる様な間は、御徳を受けてない証拠です。例えば身に難儀を感ずる場合でもそうです。難儀はあるのです一生あるです、一生が修行と仰るのですから。
 それを難儀と言わずに修行として受けるのが、金光様のご信心ですから。その難儀の場合です。鴨居で頭を打った。目から火が出るように痛かった。ああ痛よち云う位な事では、まだ御徳を頂いておるとは言えません。御徳を受けた人は、神様の一分一厘間違いのない働きがそういう、あ痛という様な思いをしなければならない様な事になっているのですから。誰でもなからなければ彼でもない。鴨居が低かったからと言った様な原因じゃない。自分が足りなかった自分が注意が足りなかった。
 自分が信心が足りないのだと。そういう頂き方。ですから目から火がでる様な痛い思いをした時でも、済みません是が一番に出る信心にならなきゃいけんです。こう言う様なものを、こんなところに置いとくから蹴つまずいたと言うて、それを置いた者のせいにするような事では、御徳を受けとるとは言えません。例えばつまづいて転んだに致しましてもです、痛い思いを致しましてもです、結局済みませんというもっと高度になって来ると、それがお礼と言う事になって来るでしょうね。
 有難う御座いましたと言う事になるでしょう。言うならば私共の生き方の上に済みませんと、有難うございますと云う生活が、段々出来て来る様になりますとです。身に徳が付いて来ると私は思います。そこにです神徳を受ければ心配は無いと言う様な心の状態。これを、信心の大眼目というてもいいです。安心の大みかげであります。痛い思いをしておってもです、安心であればいいでしょうが。その時にああ痛と云うとる間は、まぁだほんなものじゃない。
 痛い思いをした時に済みませんと出る様な心の状態です。一寸した事になると、もう目ん玉がキョロキョロしとる。一寸した事にムカッとする腹が立つ。所謂徳を受けてない証拠です。徳の無い間は心配をする。徳の無い間は腹を立てる。徳の無い間はいらいらする。ですから自分の頂いておる信心と云うものを、そういう日々の上に事々に信心で頂く時にです。自分の信心がどの様な状態であるか、どういうおかげを受けておるかと言う事が分かる。その安心の心におかげがあるのである。
 おかげが受けられる。そういうおかげでなから無ければ本当の事じゃない。そこでお互い徳を受けていませんから、腹が立つ心配になる不安でたまらん。だからそこん所を教祖は、心配する心で信心をせよと仰せられる。初めからそういう徳を受けないで、私は安心しとるとか心配は無いとかと云うなら、それは私は嘘だと思う。それは本当のものじゃない。腹が据わっとるというても、それは糞度胸と云うようなものである。糞度胸じゃいけん。神様を信じておるから安心なのである。
 それを例えば、良いことばかりじゃない、痛い思いをする様な場合であってもです。神様を信じておるから、済みませんが出るのである。神様を信じておらんからです、それを人のせいにするのです。社会のせいにっするのである。これが御神徳というて、御神徳とはどういうものかというて、見せる事もで来ません、知ることは出来ませんけれども。自分の心に問うてみて、段々信心の稽古をさせて頂いて、おかげを頂いて、段々腹が立たん様になって来る。いらいらせんで済む様になる。
 信心の無い以前だったら、こういう事が起こったら、心配で夜も眠れん様にあるだろう。それが神様にお任せしきっておれれる。そういう状態が愈々本当ものになって行く所に、信心の楽しみがあり、信心の喜びがある。そこに焦点を置いた信心でなからなければです、信心しておかげを受けてくれよと言う、神の願いである所のおかげでは無いと思う。いわゆる、信心によって力を受けて来る。だから不安な事はないと云う事もなります。例えば、剣道の達人とか、言うなら力持ちと申しましょうか。
 柔道の達人と。段々自分の力に実力を感じれれるようになる時にです。私は段々怖いものが無くなってくるんじゃないかと思います。力があるから自信が出来て来る訳です。信心の場合は、自信とは申しません。信念と申します。信念が段が強くなってくる。だから人が心配する様な事には心配せんですむ。人が難儀を感じて居る様な事には、むしろお礼を申し上げれる様な心の状態が開けて来る。
 そして、その心配の程度も、例えば腹を立てるという、その腹を立てる程度でもです。大変な高度な腹を立てる事が出来る。高度な腹を立てると言う事は、どう言う事になりましょうかね。小我を捨て大我に生き抜けと言った様な、御理解を頂いた事があります。信心は、我を捨てる事だと言われておりますけれども、それは人間的小さい我を捨てるのであって大きな我が育ってくる。小慾を捨てて大欲に生き抜け。信心させて頂いて神徳を頂いたら、慾が全く無くなるというのではなくて。
 高度な慾というものが生れて来る。自分を中心と言った様なものではない。そういう意味なんです。その為には小さい慾は捨てなければならない。小さい我は捨てなければならない。そこに神徳を受ければ心配は無いと言う様な心の状態が開けて来る。段々神徳を受けさせて頂くと、それこそ教祖様は例え畑で肥えを掛けておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通うっておる様な実感というものが頂けて来るようになる。
 実感です。例えば朝露で一杯になっておる、薮の様な処を分けて行かなければならん様な道がありますね。そういうところを通ると、サワサワと音がする。裾の方は朝露でじっくり濡れる。そいう実感なんです。サワサワと分けて行くと音がする。朝露に裾の方が濡れる。神の中を分けて通る様なものとはそういう実感。それを平気で通っておる。神徳を受けて来ると、そういうおかげが受けられる様になって来る。
 剣道の達人とか、柔道の力が付いて来るとです。怖いものが無くなって来る。けれどもです眼に見えないもの、目に見えないものが怖くなって来る。信心が段々進んで来るとです、それこそ薄氷の上を歩くような小心な思いで、日常生活が出来るようになる。御粗末が出来ちゃできん、御無礼があっちゃならん。神様の、言うならば薮の中を分けて通る時の様に、サワサワと音がするのが聞こえる実感です。
 剣道の達人になると、決して道を通って曲がり角なんかの時には、スーッと近い方から近回りをする普通の者は。けども決して近回りをしないということです。それは目に見えないものが怖くなって来るからです。いつ不意にどんな事があっても、それに応と答えられる修行をしておるから、必ず遠廻りをすると言われております。出会い頭にポ-ンと切り込まれると言ったような時には、どうにも仕方がない。それで遠廻りして行くと、向こうから誰がきよる、どんな者が居るということが判るという訳です。
 柔道の名人という風になると、寒いからというて、例えば、腕ぶつくらどんして、道を歩くようなことは決してしない。腕ぶつくらしておると、後ろからばっと、羽交締めされたら、それで動きはとれなくなって来る。だから、柔道の名人という人は、絶対、そういうことはしないと言われております。その位にです、小心に、薄氷の上を渡り、出来れば出来る程、だから腹立ちの程度とか、慾の程度といった様なものが、全然変わって来る訳です。私は徳を受けて行く過程には、そういうものがある。
 是は本当にそうです。徳の無い間は平穏無事である時には、平気でこうやって大手を振って歩く様なもの。信心も参らんなんと思うとるばってんが、お参りがでけんと言った様な、平気なものである。けれども信心の徳が少し身についてくると、信心を疎かに出来るものじゃない。参っとる時だけじゃない拝んどる時だけじゃない。日常の上にでもです。決して近回り段せん。いわば腕ぶつくらどもしておると言った様な事は無い。いうなら今度の寒修行の初日の日に頂いた様に、怠慢な事なんかは出来はしません。
 身に徳を受ければ心配は無い。神徳を受ければ心配は無いという程しの、神徳を受けて行くと言う所にはそういう過程がある。だからそれが願いであり、それが目的である信心の。そういう信心をお互い身につけて頂きたいと思う。自分が心に安心の状態、平安の状態心がイライラ、モヤモヤとしておる間はです、決して御徳を受けておるとは言えない。目ん玉がキョロキョロしておる間は、信心の無い者も同じこと。
 何故かとそれを例えば信心しておかげを受けるという、ご利益を受けると言う事だけが焦点だからなんです。神徳を受ける自分の身に徳を受けて行く次第にです、心配は無いという。信心をしておれば徳の無い間は心配そする。徳の無い間は腹が立つ。徳の無い間は心配になるという風に頂いたら良いと思うです。それが段々おかげを頂いてきておる証拠に、腹が立たん様になった。心配が無くなってきた。けれども今まで感じた事も無かった事が心配になる高度になって来る。
 言うならば神様がご心配になる様な事を、自分の心配とさせて貰う。信心の無い人達が、難儀と感じておる事は、お礼を申し上げる心の状態が開けて来る。けれども信心の無い人達は、それを平気な事にしておる様な事にです、不安を感じたり出来るほどしの心の状態が進んでいく。そこに自分の信心が今どこの辺の処を通っておるかと言う事を感じさせて貰う。それが愈々確固たるものになって来る。信心の稽古をさせて頂く者の楽しみ、喜びというものがです。
 私は自分のおかげが、言うならば預金通帳が増えていくと言った様な事が楽しみの信心からは生れてこないと思う。おかげを頂いて段々信心の御徳とまでは行かなくても、是が段々積り積もったら、御徳になるのであろうと思われるような体験は、皆さんが全員是は、私も含めてみんなははぁこういうのが、御徳というのであろうかと思うようにおかげを頂く。そこん所に一つ楽しみを喜びをおいての信心。その為に精進が必要なんです。修行が必要なんです。
 今日十三日は合楽では、神の願いが成就する日として、大事にさせて貰うて、終日御用を頂いたり、信心の共励をさせて貰ったり。これはどう言う所からそう言う事になっておるかと言うと、昔は月の十三日が御本部へ月参りの日であった。それがある事情で、お参りが出来なくなって、その当時月参りをしておった方達が、御本部にお参りしたつもりで、その当時の樺目に集まって信心の共励をした。
 そしてそれをその当時の御本部参拝の旅費を積立てて、何かの御用に使うて頂こうと言う様な働きになったのが、そもそも十三日会の始まりなんです。ですから十三日の日は、皆さん、御本部へ月参りをしておると思うて、朝から御用を頂いておっても一日汽車の中で信心の共励をして行きよる積もりでです。信心の共励に出らせて頂いたらいい。そういう行き方がです、神様の願いが少しずつでも成就していくと言う事になるのです。神様の願いが成就して行くと言う事は、どう言う事かと言うと。
 氏子が信心をして段々御徳を身につけていくと言う事なんです。形の上においてはです十三日会が、当時までは合楽には預金というものは全然無かった。十三日会が生れるまでは。けれども十三日会が生れて十三日会で特別のそういう方達の献金を集めて、預金をしておったのがこちらへ移らせて頂く時に七百万出来ておった。それがここの土地を買うお金になったんです。それがここのお広前が出来る元になった。成程神の願いがその様にして成就して行く事が、次々塵も積もれば山となると言う様な事になった。
 これは形の上のこと。だから心の上においても、神様の願いが成就すると言われる様な日を大切にそういう行き方、自分というものを空しゅうして、御本部参拝をしておるんだと言う様な、せめてこの十三日位だけは、自分というものを空しゅうして、御用にも打ち込ませて頂こう信心の共励にも、打ち込ませて頂こうと言う様な行き方からです。私は御徳と言うものは、塵も積もれば山となると言う様にです段々出来てきた。
 成程信心させて頂きよれば、段々心配が無くなって来る。信心させて頂いておれば、徳が段々少しずつでも受けていけておるのであろう。それがこの様に心の中に喜びが一杯である。普通だったら心配でたまらん。寝られんごと不安であると言う様な事も、不安を感ぜんで済む様に、自分の心というものが安定して来る。目がキョロキョロしない事になって来る。おかげで腹が立たん様になって来る。
 そういう体験を日々頂いていくと言う事、信心だと言う事。勿論そこにはでそういう徳を受けるという、徳におかげが寄り添うて来る。昨日は婦人部の方達の新年の初の会合でした。中で日田の綾部さんが言うておられる。先生今年になってから特に感ずる事。それはあれが欲しいなぁと思うと必ずそれが集まって来る。あぁあれは良いなぁと心が動くと、それが必ず集まって来る。それが今年に入って次々と体験しておりますち言う。それはあなたが御徳を受けて行きよんなさるとたいと言うて話した事でした。
 少しずつでも信心の実力と言うか徳とまでは行かんでも、力が出来てきておるとです。そういう働きになって来る是はおかげの世界です、ここで本当に一切のものが神様が集めて下さったんだなと思わなければおられない様なものが集まって来る様にです。徳というものには人間の幸せの条件と言うものが足ろうて来る。どうぞどうぞと言うて貰うおかげとは根本的に違って来る。云うなら身について来ると言う事。そういうものを頂く為には、矢張り御徳を受けなければならん。
 又御徳を受けるための信心がなされなければならん。それを具体的にいうとです、神様の願いが成就すると言われるほどしの日々がです、あらなければならん。十三日会だけであってはならない。それを十三日会一日にです、ははぁ成程こういう行き方が信心だなぁ、こういう行き方が心配が無くなっていく、イライラが無くなっていく行き方というものか、そういう行き方にあるという事を体験して参りますとです。忙しゅうして忙しゅうしてと言った様なことを言わんで済むおかげ。
 頂いておるおかげにしがみついて、身動きも出来んごとなると言った様な事では、頂いたおかげの為に返って窮屈になるじゃないですか。ですから神様が蓮根食うて下さるようなおかげを受けなければならん時もあるけれども、只そういうおかげに甘んじておってはならない。信心の実力を頂いて実力に応じて、頂けるおかげが頂ける。それを私は神徳だと思います。勿論そういう神徳が身について来る限り、心配はないと言う信心の大眼目である所の、安心の大みかげが頂けて来るようになる。
 安心のおかげを頂きたい。どんな様な場合であっても、安心しておられるおかげを頂きたい。所が生身をもっております私ともですから、何処にお粗末御無礼があるか判らんから、一生が修行であり矢張り痛い、鴨居で頭を打つように、それこそ目から火が出るような痛い思いをする事があるけれども。そういう時にああ痛よという前に、済みませんというものが出て来る信心が尊い。そういう信心が実感として感じられるおかげを頂く。そういう稽古を、お互い繰り返させて頂かにゃいけんと思うですね。
   どうぞ。